現代のスポーツのレベルと言うことになったら
何の理屈も理論も客観性も示さず、問答無用で
「今(現代)はレベルが高い」
と一方的に結び付けようとしているバカがいる。
本当にバカなんだろうなと思う。
悪いけど、事実だ。 証明していく。
http://ameblo.jp/miumalovely/entry-12243841647.html
http://ameblo.jp/miumalovely/entry-12218047107.html
上記リンク先記事でも書いているが
コレに対し、客観性(データ)と理論を持って
誰も反論できないし、出来る人はいないと思う。
爆笑だったのが
「今のほうが球速が速いから、今のほうがレベルが高い」
というコメントや反論。
オレは全体的に数字を見ての理論や判断なのだが
なんでそのアホ(ごめん)は一方向しか見れないのか?
しかもね
現代のレベルを高い高いと言う割には
その球速の部分しか持ち出せないことに笑ってしまう。
まあそこしか見られないのだろうけど。
口を開けば
「球速が上がっているから」とそれだけ。
しかもそれは投手の色々な能力の一部分だろう。
そこだけを見て「現代のほうがレベルが高い」と一方的に結びつけるのは
あまりにも軽挙妄動と言わざるを得ない。
100歩譲って球速が上がっているとしよう。
しかし、現代の投手は昔のように能力の高いエースやエース級が投げぬいたり
連投したりと言う状態ではなく、おまけに現代の投手は、データでも分かるとおり事実投げる回数自体が異様に少なく(勝利投手権利をもらえる5~6回投げて降板。次の登板まで約1週間空ける)、能力的に数段劣る後続(中継ぎや抑え)に回している状態だ。(投手の分業制)
投げる回数が少ないのだから、次の登板間隔が短いのかと思えば
中5日6日と1週間そこら空けているのが現代の現実だ。
何が言いたいのか?
こういうことだ。
100歩譲って球速が上がっているとしても
こうも(エース、エース級の)投手の投げる回数が昔に比べて格段に少なく
次の登板まで異様な間隔が空いている現実を鑑みたら、球速が上がっていること自体何の意味も無い。
これは逆に、体力的に現代の投手のレベル(基礎体力のレベル)は落ちていると言う証拠じゃないのか?? だから投げても無いのに異様な間隔を空けるんだろう。
違うか? いや、そういうことだよ。
「投手の体を壊さないように永く続けてもらうことを考えているんだよ!」
要するにこういうことだ。
球速が上がっていると100歩譲って考えても
こうやって過保護にすると言うことは、その球速に対して耐性が追いついていない。
分かりやすく言い換えると、投げる回数自体も異様に少ないのに、ちょっと動いただけで体に違和感を覚えたり、肩に違和感を覚えたり、登板を回避したりするのは、現代の投手の肉体的なレベルが異様に低いとしか言えない。
ダルビッシュが中4日(次の登板まで4日空ける。例えば1日に登板したら、中4日と言うことは5日目に登板)で「キツイ」といったのがその証拠。
更に分かりやすくいうとこういうことだ。
球速(技術)のレベルは上がっても、使い手(体力、能力)のレベルがそれに追いついていない。
相互(球速の向上と選手の現状)の状態を鑑みたら
球速が上がっているから現代のレベルが高いと一方的に結びつけるのは無理がある。
次の内容も、リンク先記事にえっと書いていることだが・・・
「全体的にレベルが上がれば
残す数字は低くなる。そして突出した数字も出せなくなる」
イコール
「現代のレベルは高い」
と言うことに対して。
上記リンク先記事でも指摘したが
その理屈が正しいのであれば
平均点20点(100点満点)で
「高レベルだ」ということと同じだ。
平均点20点で「レベルが高いですね」というバカはいない。
全体的に、その程度の学生しかないと言う判断になる。
そのテストに太刀打ちできない能力の学生ばかりと言う判断だ。
コメントでもあったように
「率の類は相手の力量も加わることだから」
という内容に絡む内容だ。
対戦相手(投手)の力量が高ければ高いほど
率は残しにくくなる
と言う理屈を言いたいのかもしれないが
じゃあ、その理屈が正しいのであれば
イチローの内野安打を含んだ過去の高打率は
イチローの脚やバット技術云々じゃなくて、周り(投手、守備)がヘボ過ぎた ということで宜しいのね? おれはその理屈でも別に構わんけど。
まあ、実際、イチローの高打率の7分は内野安打によるもので、内野守備を見ても結構ザルだしね。キチンと守れていたら、イチローの打率は日本でもアメリカでも通算3割も無いだろうな と思うことはある。
でも、オレは「周りのレベルが」という、そういう判断ではなく
テストと同じように
自分の力が、その相手を攻略できる能力があれば結果は出せる。言うなれば、自分の力が高ければ、結果は高くなる。(テストの点も上がる)
ということだ。
相手の力量もまあそうなのだが
それより重要なのは、相手がどうかではなく、自分の力がどうかだ。
だから
自分の力がなければ残す数字は低い
自分の力が高ければ残す数字は高い
必然的にこうなる。
だからみんな一生懸命練習するんだよ。
プロ野球でも、60年代、70年代は打者・投手とも高レベルな数字だった。
これは周りのレベルが不甲斐ないからではなく、全体的にその時代の層は
最もプロ野球80年以上の歴史で最高の選手たちが集った、豊作の時代だったからだよ。
お互いに高レベルが切磋琢磨し、しのぎを削ったからこそ、あそこまでの数字をお互いに出せた。それだけだ。
「全体的にレベルが上がれば残す数字は低くなる
突出した数字は残しにくい」
この理屈が正しいのであれば
もう一度書くが
プロ野球の90年代初め頃、28本でホームラン王、80打点で打点王が決まった年。
そして最優秀防御率が3点台で決まった90年代終わり~00年初めは最も高レベルという理屈になるがそういうことで宜しいのか??
ダルビッシュが日本にいた頃、防御率1点だが続出し
田中のマー坊が24連勝で勝率1.00をはじき出した年は最低レベルということになるが
そういうことで宜しいのか???
大相撲でも
90年代初めに、11勝4敗で5人の巴戦で武蔵丸が優勝した年が最高レベルで
15戦全勝が多発している現代が最も低レベルということで宜しいのね??
でも、現代擁護派ってこういう都合の悪い箇所は棚に上げて
「現代はレベルが高い」
となぜか吹聴している。
前にも書いたけど、こういうことだ。
「数字は低くても現代がレベルが高いと思わないと気がすまない。今を否定すると、今を生きている自分たち(の存在)も否定するようで気分が悪い」
この心理なのだ。
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全体的な数字が低い現代が高レベルというのは矛盾する 「現代擁護派は頭を使えないのか」
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