中京大学・湯浅教授の
沢村栄治投手に関する科学的分析(投球動作、腕のスピード、腰の移動速度)
によると、その一連のスピードは日ハムの大谷投手と殆ど変わらない速度であり
「150キロ台後半は間違いない」
と結論付けた。(クローズアップ現代)
これに対して、異を唱える人がこの世の中に数多いるが
非常に滑稽なことに
湯浅教授の理論・分析に対して、同じように理論や分析で
「それは違う」と対抗している人がいない。
前回の記事にも書いたが
100%全員、感情論の返答(異論反論)になっているのである。
ヤフーの掲示板でもあったが
「昔だからレベルは低い。だから出せるわけが無い」
「昔の投手が出せるわけが無い」
口に出るのは
すべて、「昔」「昔」「昔」
ニーチェの言葉を多少いじって紹介するが
ニーチェは本当に良いことを言ったもので
人は、反論する場合
その反論する対象に関して、確固たる理論や分析、証拠があって反論できる人は殆どいない。
人間面白いもので
その反論したい人の言い方、仕草、態度、言動に反発の気持ちがあるから反論したいだけなのだ。
沢村栄治の球速に関して、同じようなことが言える。
現代崇拝者は、今のほうがレベルが高い。
昔だからレベルが低い。比例して球速も遅い。
と、何の分析も理論(コレは理論ではない。ただの思い込み)も無く
一方的に 「昔=レベルが低い=球速も遅い」 と先入観で結び付けている。
そこに、中京大学の湯浅教授のような、科学的分析、誰からも対抗できないような理論を持った人が現れ、その現代崇拝者の思い込みを根底から覆して公にした場合
まあ、現代崇拝者は面白くないわな。
それは当たり前
その科学的分析や理論に対抗できる武器を
現代崇拝者たちは保持していないのだから、対抗できない。
でも、そのまま引き下がるのはムカつく。じゃあどうしようか。
感情論で返すしかない。
(気持ちはわからんでもないが、やはり正常な思考の持ち主であれば理論や分析に対しては、同様のもので返さないと意味が無いのはわかるはず)
それが
「そんなのインチキだ」
「計測がおかしい」
「昔の映像は速いからアテにならない」
「出ているわけが無い」
「昔の投手なんて130キロが関の山だ」
という、それこそ何の根拠も理論も無い
感情論でぶつかる結果になっている。
オレは前回にも書いたように
湯浅教授の結論は「正解」だと思っているし
昔のほうがレベルが高いと思っている。
簡単にもう一度、理屈を書くが
残す数字が今よりも昔のほうが高い。それは紛れも無い事実だ。昔の記録が今でも尚燦然と輝いているのもその証拠。残す数字が高いということは、それだけその人の能力が高くないと実現しない。能力の低い人が高い数字を残すことは出来ない。
残す数字が全体的に低レベルで
「レベルが高い」と逆のことを言うのは無味乾燥であり、非常におかしい。
全体的にレベルが上がれば残す数字は低くなる という現代崇拝者の理屈が正しいなら、では平均点が100点満点中20点の全体的な低数字の状態で「レベルが高いですね」「優秀な学生が集ってるんですね」と言うのか?
言うわけねーよ。
で、なんでプロ野球やスポーツのことになったら矛盾したように低レベルな数字の現代を
「レベルが高い」と一方的に「高レベル」と結び付けようとするんだ?? コレが非常に滑稽なのよ。傍から見ていて。
もし、現代崇拝者の誰かが
湯浅教授の科学的分析に対抗する分析を行い
公にして、湯浅教授のデータを覆した場合
まあ、そのときは湯浅教授のデータはおかしかったと
そのときに思う。
沢村栄治投手に関する科学的分析(投球動作、腕のスピード、腰の移動速度)
によると、その一連のスピードは日ハムの大谷投手と殆ど変わらない速度であり
「150キロ台後半は間違いない」
と結論付けた。(クローズアップ現代)
これに対して、異を唱える人がこの世の中に数多いるが
非常に滑稽なことに
湯浅教授の理論・分析に対して、同じように理論や分析で
「それは違う」と対抗している人がいない。
前回の記事にも書いたが
100%全員、感情論の返答(異論反論)になっているのである。
ヤフーの掲示板でもあったが
「昔だからレベルは低い。だから出せるわけが無い」
「昔の投手が出せるわけが無い」
口に出るのは
すべて、「昔」「昔」「昔」
ニーチェの言葉を多少いじって紹介するが
ニーチェは本当に良いことを言ったもので
人は、反論する場合
その反論する対象に関して、確固たる理論や分析、証拠があって反論できる人は殆どいない。
人間面白いもので
その反論したい人の言い方、仕草、態度、言動に反発の気持ちがあるから反論したいだけなのだ。
沢村栄治の球速に関して、同じようなことが言える。
現代崇拝者は、今のほうがレベルが高い。
昔だからレベルが低い。比例して球速も遅い。
と、何の分析も理論(コレは理論ではない。ただの思い込み)も無く
一方的に 「昔=レベルが低い=球速も遅い」 と先入観で結び付けている。
そこに、中京大学の湯浅教授のような、科学的分析、誰からも対抗できないような理論を持った人が現れ、その現代崇拝者の思い込みを根底から覆して公にした場合
まあ、現代崇拝者は面白くないわな。
それは当たり前
その科学的分析や理論に対抗できる武器を
現代崇拝者たちは保持していないのだから、対抗できない。
でも、そのまま引き下がるのはムカつく。じゃあどうしようか。
感情論で返すしかない。
(気持ちはわからんでもないが、やはり正常な思考の持ち主であれば理論や分析に対しては、同様のもので返さないと意味が無いのはわかるはず)
それが
「そんなのインチキだ」
「計測がおかしい」
「昔の映像は速いからアテにならない」
「出ているわけが無い」
「昔の投手なんて130キロが関の山だ」
という、それこそ何の根拠も理論も無い
感情論でぶつかる結果になっている。
オレは前回にも書いたように
湯浅教授の結論は「正解」だと思っているし
昔のほうがレベルが高いと思っている。
簡単にもう一度、理屈を書くが
残す数字が今よりも昔のほうが高い。それは紛れも無い事実だ。昔の記録が今でも尚燦然と輝いているのもその証拠。残す数字が高いということは、それだけその人の能力が高くないと実現しない。能力の低い人が高い数字を残すことは出来ない。
残す数字が全体的に低レベルで
「レベルが高い」と逆のことを言うのは無味乾燥であり、非常におかしい。
全体的にレベルが上がれば残す数字は低くなる という現代崇拝者の理屈が正しいなら、では平均点が100点満点中20点の全体的な低数字の状態で「レベルが高いですね」「優秀な学生が集ってるんですね」と言うのか?
言うわけねーよ。
で、なんでプロ野球やスポーツのことになったら矛盾したように低レベルな数字の現代を
「レベルが高い」と一方的に「高レベル」と結び付けようとするんだ?? コレが非常に滑稽なのよ。傍から見ていて。
もし、現代崇拝者の誰かが
湯浅教授の科学的分析に対抗する分析を行い
公にして、湯浅教授のデータを覆した場合
まあ、そのときは湯浅教授のデータはおかしかったと
そのときに思う。