昨日の「高校3年の7割~9割の英語力は中卒以下」と言う記事の続きだ。
「日本人の英語能力(外国語能力)が伸びない理由」
を綴っていく。
とりあえず、広義として、外国語として表記したいところだが
ここでは、英語として絞ることとする。
高校3年というと中学1年から本格的に英語を学習し始めて6年目にあたる。
6年も英語を勉強し、大学という最高学府に進もうかと言う7割~9割の人間が
「中卒以下の英語レベルしか保有してない」と言う現状に、オレは驚かない。
そうなるのは当然
英語を学ぶ内容が不純であり、学ぶ内容にバイアスがかかっているから。
これを詳しく説明していく。
学生時代、「本当に英語をマスターして、その言語が使われている国で活かしてやろう」という英語学習本来の目的としてはじめる人は殆どいないだろう。
学生が英語を学ぶ切欠は
「学校で必修教科として位置づけされており、学ばざるを得ない状態になっていること」
ここがそもそもの(イヤイヤながら)英語を学ぶ切欠として
日本人全員に与えられている、強制的な切欠である。
まず
この切欠の時点で
「能力が伸びる」という大きな要素が阻害されている。
本来、何かを学ぶ為には「興味」「自主性」が必要であって
強制が出てくるものではない。
そして、英語を学ぶと言っても
その中身(内容)もおかしい。
結局日本(人)の英語学習の最終目標は
英語を学ぶ学生の殆どが
「言語を活かして仕事をする(生活する)」のではなくて
「受験に通る為の便法」というバイアスのかかる目的で終わっていることが致命的欠点。
言語を活かして仕事をする・生活をするのであれば
試験に出る表現、試験に出ない表現 そういう偏りはない。
人によって幅広く思考も違い表現法も異なるのだから
表現も、試験に出る出ない関係なく学んでいく必要がある。
これこそが言語学習の最高の醍醐味だ。
例えば、主語が三人称単数だとすれば一般動詞の語尾にsもしくはesをつける
と言うのが、「学校での文法上」の学習であるが
実際はその必要は無い。実際実践ではつけない人も居る。
特にネイティブの中にはつけない人は多く見られる。
ここが理解できるだけでも受験と言う世界しか触れていない人は
「知らなかった!」と目からうろこかもしれない。
前置詞に前置詞(まあオチとして不定詞に当たるのだが)を重ねるやり方も
実践では普通にある。(ネイティブも良く使う)
例えば以下の英文
I am good at playing the guitar.(ボクはギターを弾くのが得意です)
文法上、前置詞の後ろに「~すること」と置きたい場合
動名詞の「~すること」を置けと習う。
しかし、ネイティブの中にはそういう文法上の規則を無視して
以下のように表現する人もいる。
I am good at to play the guitar.(ボクはギターを弾くのが得意です)
動名詞ingの形で「~すること」であるが、不定詞to+動詞の原形で「~すること」がある。
それを動名詞の代わり(置き換え)で置いただけだ。
表面上、前置詞atと前置詞toが重なっているので「文法上」は「やってはいけない」が実践はそういう決まりは無いので、ネイティブの中にはこういう表現にする人もよくいる。
極めつけは以下の表現。
In case of he comes here, tell him to call me back.
(彼がここにきたら、オレに折り返し電話をするように言って)
英語をかじったことがある人なら
「あれ? これおかしいじゃん」 と思うところがあるはず。
そう。 前置詞ofの後ろに「節」が付属している。
これは文法的に間違いであって、やってはいけない。
正確にはこうだ。
In case he comes here, tell him to call me back.
in case of~ は 「~の場合」であるのでofの後ろは名詞が付属しないといけない。
in case+節 は主語が動詞する場合と言う表現であり、caseの後ろに接続詞thatが隠されていると思って良い。
だからこの2つは表現が全く違う。
最初のIn case of he comes here
は、以下のオチだ。
ofとheの間に接続詞のthatを置いて「~こと」を暗示し
「彼がここに来た(ということ)の場合」と表現しているのだ。
実際、この砕けた表現の使い方は
映画「ターミネーターⅡ」でも使われている。興味ある人はどうぞ。
こういう表現を学んでいくことも
英語を学んでいく楽しさの一つでもある。
しかし、英語を学ぶ学生は
その言語を実際に活かす目的とはしておらず
どうしても「試験の為」というバイアスのかかる目的手段としている為
「その表現は知らなくて良い」
「その表現は必要ない」
と制限をつけてしまう。
我々指導者も、学生の殆どの英語を学ぶ目的が
「受験に通る為」ということが暗黙の了解としてわかっているので
「この表現は出るぞ」
「この表現は出ないぞ」
「覚えろ」
「覚えなくて良い」
こういう制限をつけてしまう。
受験指導なら尚更で
出そうな表現、出ない表現をえりすぐるので
どうしても幅を狭める。
英語を広く学んで、楽しめることを
阻害してしまっているのだ。
実際、この表現は出る出ないなんて
言語を活かす世界じゃ無意味なんだから。(実際、人によって表現や思考は違うので、人がこの言葉を使う使わないなんて分かるわけない)
英語を学ぼうとする学生も受身で悪いのだが
指導する我々も受験の為と言う目的に暗に指導として摩り替わってしまっているので
こちらも悪い部分は当然ある。
だからオレの場合
必要ない表現も教えることによって
「こういう言い方もあるんだよ。本当はね」
ということを「頭の片隅に覚えておいて」くらいの説明はするようにしている。
上記の表現も勿論教える。
「そんなのいいから(センターに)出そうな表現だけ教えろよ」
「へーー それは面白いな!」
学生達の顔は面白いことにどちらかに分かれる。
ほぼ、後者の表情をして必死にメモを取っている学生は
今後、伸びる。そして成績も良い。(経験上ね)
そして、卒業しても英語を「消費目的の勉強」で学び続けていたりする。
まあ、後半話が逸れたが
日本は英語教育そのものを
「受験の為」ではなくて、実際にその言語そのものを学んで
活かせるように訓練しましょう。
と、根本を切り替える必要がある。
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日本人の英語能力(外国語能力)が伸びない理由 「学ぶ目的が不純であり、内容にバイアスがかかる」
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